02:また会えた。











 入り口の方から聞こえ零れる騒ぎにアクディス・レヴィが気づいたのは、第二の神殿の中枢に位置する、祭壇への祈りを捧げてきた帰りだった。
 何の力も持たない若造と、耳にするどんな囁きより誰より自分がそう思っていた昔、神官長の仕事の中で何より苦痛だったのがこの祈り、祈祷の時間だった。己の無力さを理解し、そうして力有る者を押しのけ向かう事の辛さと云ったら無かった。意味などまるで見出せず、神に届く訳無いではないかと舌打ちをし、けれどその責務を他者に譲り渡す勇気も、あの頃の自分にはまるでまるで、無かった。
 そう昔を思い遣って、愚かと笑う事もない。辛かったのだな、と何処か他人事の様に今のレヴィは思う。
若かったのだ。長い間積み重ねられた重圧を放り出すだけの強さも弱さも持っていなかった。持たずに生きる人間には、困難が多い現実を今のレヴィは知っている。
けれど生きていける。生きていれば、どうにかなる。そう思う事が出来る、一つの小さな強さをレヴィは知らぬ間に手に入れていた。だから今、こうして立つ事が出来ていた。虚勢と強がりを混ぜ入れて。
「…無力な事が罪だなんて思わない」
 小さく漏らした呟きは、少し後ろに付き従っている補佐役の神官の耳には届かなかった様だ。横目でちらりとレヴィが覗けば、次の視察先の資料を歩きながら必死で探している様子が目に入った。勤勉で生真面目な男で、何かと多忙で細かい仕事も多いレヴィの補佐を自分から熱心に希望した変わった男だ。前は確かエル・トパック、異母兄の部下だったと記憶している。
「…元より人一人が出来る事などたかが知れている。誰だって無力だ。…それがどうして判らなかったのだろうな。俺は」
 世界が安定を取り戻してから、地下に位置する第二の神殿に落ち着いてから、もう気づけば随分な時間が過ぎていた。以前の様な圧倒的な力を持たない神殿に、それでも足を運ぶ者は少なくない。
彼等の何れもは小さく必死で、無力が故に手を伸ばす。僅かなりの希望を胸に、神殿へとやってくる。
その思いを受け止めて、レヴィはただ思いを込めて祈るのだ。力無いが故に、その思いを痛切に受け止める事が出来る、その誇らしさに気づくのにはそれでも随分な時間が必要であったけど。
「…教えてくれたのは、誰だったかな」
 今は遠い、記憶の中の相手を思い遣った言葉は、気づけば呟き以上のものになっていた。控える様に歩いていたお付きの神官が少し歩を進め、横に並びながら目線で窺ってくるのが判る。なんでもない、と掌で応えて、改めてレヴィは前を向く。悲痛さは無い。重圧も無い。ただ素直に前を見遣った。それだけの事で、背筋が伸びるのは不思議だと思った。

 騒ぎに気づいたのはそんな時。
言い争いの声、いや一方的にがなり立てている神官の声にレヴィは思わず顔を顰めてしまう。何の騒ぎだ、と怒鳴りつける為に息を吸い込み、足早に進めば狭い神殿内、苦しくなる前に容易に騒ぎの元へは辿り着けた。
 背にしていたマントが揺れる。開けた視界に向かって、間も置かずに口を開くのは気合の表れ以外の何でもない。


「よう」
 風の様に、そういえば何時だって現れた気がする。
 長い髪をしている訳も無く、マントをたなびかせる訳も無く。ただ己の気性一つ、生き方を身体の全てで顕している。そんな男だった。忘れもしない。忘れられる筈も無い。
「久しぶりだな、兄ちゃん。お邪魔するぜ」
 白い歯を見せて笑う、その姿はまるで変わってなどいなかった。


「なっ…!神官長様を兄ちゃん呼ばわりとは!何処のならず者かっ、警備の者は何をしてるのだ!」
 呆然としている時間はそう長く与えられはせず、補佐の神官の怒鳴り声にレヴィも耳を覆いたくなる。すぐ横で、いっそ半狂乱といっていい程にがなっている彼の姿などスルーして、相変わらずの風来坊ぶりに目を細めれば、その足元に転がっている神殿の警備を任する見知った者の姿も否が応でもレヴィの目に映る。随分と前に同じ様な事があった気がふとして、ついでの様に苦笑した異母兄の姿を思い出す。あの時は判らなかった、憤怒の対象でしかなかったその笑みの意味を、今はこんなにもはっきりと理解出来た。鏡を見なくても判る、今のレヴィの顔に浮かぶのはきっとあの時に見た、酷似した彼の、笑み。
「怪しくねぇって言ってんのにがーがー騒ぐからよ、まっ、加減したからすぐに目を覚ますだろ。お前さんもそんな噛み付くなよ」
「神官長様にそんな態度を取るっ、そもそもそれこそが問題なのだっ!誰でもいいっ、早くひっとらえろ!こんな侮辱を許してたまるか!」
「…ったく、たまんねぇな。おい兄ちゃん、どうにか言ってくれ。…上手く、こう、よ」
 にやにやと、人を食う笑みを懐かしい、と思う。
 彼の語尾に含まれた意味にはすぐにレヴィも気がつけた。大神官様、と開きかけた口を声をどうにか飲み込んで、未だ騒いでいる隣に立つ神官に手に持っていた書類を押し付けた。次の視察の資料、目は通している。神官長様!救いを求める民の様に、半泣きで見遣ってくる彼にレヴィは柔らかく笑んだ。
「この方は昔、私が大変お世話になった方だ。各地の放浪の、その足で立ち寄って下さったのだろう…どうか失礼の無い様に。ああ、奥の執務室に私がお招きするから、君はこの後の視察をこなしてくれ」
「…はっ!?私、ひとり、ですかっ!」
「資料は目を通したが、そう時間も掛からないだろう。数の確認と納めている責任者の話、その二つを抑えてくれればいい。…すまないが頼んだ。私の補佐なら、問題は無いよ」
 自分の出来る事、出来ない事。人一人が抱え込める物事など、数が知れている。その事をレヴィが悟り、そうして周りに手を差し出されるのを待ってくれている者達の存在を知ってから、少しずつ少しずつ人に頼る、その事を覚えた。
 信頼。与えるのも、与えられるのも心地良い。頼む、と笑みのまま彼の肩を叩けば、先ほどの半狂乱の声に負けないくらいの、背筋の伸びた敬礼と返事が返ってきた。思わずレヴィも一歩退くけれど、理由も知らず燃え上がった彼は気にもせずに神殿入り口の階段を駆けて行く。やる気に溢れた後姿。良く判らないが、とりあえず良いとして、そうして漸くレヴィは笑みを浮かべたままの大男へと正面から向き合った。
 口に乗せるのは肩書きでは無く、まだ馴染まない名前。様、を外せないのは見逃してもらおうと思う。
「…随分と、よ」
 名を呼ばれて、イルダーナフはまた笑う。けれど口端を上げるだけのそれでは無くもっと柔らかな、噛み締める様な。そんな笑顔を、彼はする。
「無理もしねぇで、頑張ってんだな。神官長」
 笑い顔にその呼び名に、くすぐったさを覚える日が来るなど、思ってもみなかった。




「…で、顔出した用件ってのがよ。ちょいと預かってほしいもんがあってな」
 大神官である彼が以前使っていた、今は自分が使用している執務室へと招こうとすれば、ここでいいと制された。そうして同時にちらり、階段へと目をやるイルダーナフに倣えば、視線の先に頭からローブを被った男が映る。どうやら連れらしい。その態度と理解している彼の性格から、長居はしてくれないのだろうとは容易に予想が付いた。せめて三つ子達とロワジーにだけでも会わせなければと、心中で決意しながら、レヴィは真直ぐ目線を合わせて頷いた。頼まれて、断る理由などレヴィには無い。
全身から溢れる真摯さ、いい意味で変わらない彼の生真面目さを久しぶりに受けて、イルダーナフは楽しそうに口許を歪ませる。そうして口を開き、舌に乗せるのは聞き覚えのある、その特徴だった。
「青い目をして、褐色の肌。銀髪の毛並みの犬を一匹、な。食べることがどうにも大好きで、随分迷惑かけるかもだが、元の気性は大人しい。ま、頼む」
 言われた言葉を受けてふんわりと微笑む事が出来るのは、その正体の暖かさの他じゃない。
「…それはルナンの子犬ですか。こんな遠くまで、エル・トパックがよく許しましたね」
 第二の神殿で生まれた、小さなカイルロッド。
 時折やってくる手紙に記された成長の記録ややんちゃ加減は相当なものだ。渋面な顔を作りつつも、少しだけ気持ちが跳ねた。あの小さな奇跡の塊りに、会いたいと思う気持ちは、レヴィだって実の所ロワジーや三つ子にも負けてはいない。
 いいや、とけれどイルダーナフは首を振る。
 今までの軽快さとまるで違った、重圧感さえ与える目で真直ぐにレヴィを見る。
「銀髪の大型犬さ。一房、赤い前髪入りのな」
「…まさか」
「そのまさかだ。…だからこそお前さんに、此処に預けにやってきた」
 反射の様に、階段に目をやった。全身をローブで隠した男は体格くらいしか見て遣れない。けれど確かにその背格好は記憶の中にある、あの時は見送る事さえ出来なかった背に、似ている。
 言葉が出なくなる。
 まさか、とレヴィがもう一度呟いたのは、恐らくは否定の表れだ。認めてはいけないと、身体が、心が、拒否している。
「有り得ない。…そんな奇跡が、起こる筈が無い」
 レヴィにとって、告げた事も無かったけれど、彼は確かに友だった。
 だからこそ何も出来ず、平穏を世界を包む暖かな光をただ受けるしか無かった自分の胸には消える事の無い疵が出来た。どれだけの時間を掛けても、例え薄れても、決して消えはしない、小さな棘。
 哀れみはしないと、あの時に決めた。自分の出来る事を、出来る限りを精一杯にこなして、食べて、休んで、彼の好きだった人間と接して話して、笑って、…生きる。それだけが自分に出来る、彼へ返す事の出来るものだと信じていた。
 不意に目が覚め、掻き毟るような激情に胸を焼かれても、それでも生きていく。抱えて生きていく。レヴィの目に映る銀髪の青年は、カイルロッドは何時でもそうして笑って、いたのだ。
「…お前さんの気持ちも良く判るさ。俺だって、目にした時はおんなじ気持ちだった」
 肩に乗せられた掌は大きな手だった。酷く遠く、届かない人だとずっとレヴィが思っていたその手の温もりは、自分と同じ暖かさで―――そして少しだけ。震えていた。
「けれどよ、俺が此処に真直ぐに連れてきた理由は、ちゃんとあんのさ。…有り得ない、そんな存在のアイツに掛けてやれる言葉はなんなのかってよ」
 頼む、と言ってその手はレヴィの背を押した。
 浮いた腰に、自然と踏み出してしまった足。思えば何てことの無い距離だった。恐らくは数歩で辿り着くだろう、座り込む、そのもう一つの奇跡の形。
 思うほど接触も無かった。最初の印象も出会いも思えば最悪で。交わした言葉も過ごした時間も、決して柔らかなものだったとは言えはしない。力有る者と持たない者。彼とレヴィの関係など、言ってしまえばそれだけだった。
 けれど信じている。間にあった感情を、今彼を目の前にして抱く、言いようの無い思いを他の言葉に置き換える事がきっと、きっと出来るのだ、と。
「…どうしてとか、何で、とかじゃねぇんだ。―――そして、俺でもよくねぇな。アイツの事を負い目無く、ただ受け入れてやれなきゃ意味がねぇ。…なぁ、一つ聞くぜアクディス・レヴィ。お前さんにとって、カイルロッドは何だった?」
 真正面に座り込んでも、彼は身じろぎもしなかった。
 ゆっくりと頭のローブに手を掛けながら、レヴィは真直ぐに、前に居る青年に向かって呟いた。


「…ともだちだ」


 ぴくり、と肩が揺れたのは取り払われた布の所為か、それとも直接に受けた明かりの眩しさだろうか。光に照らされた銀の髪は美しく、また懐かしい。強さの無い青い目はそれでも自分を見てくれている。赤い、前髪の一房が迷い込んできた風に乗って、ふんわりと揺れた。
胸に込み上げてくる思いをレヴィは飲み込んで、腕を伸ばしてカイルロッドを抱きしめた。
声にした言葉。おかえりなどの迎え入れのそれで無く、自分の感情、思いの吐露でしか無かった事にレヴィは後で少しだけ、少しだけ恥じた。







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思い返せば、僕らはともだちだったのではないか。
レヴィとカイルロッドは本編中、そうであったと信じてます。同じくらいの年齢、違う立場、力の有無、だからこそ重ねて相手の事を思い、理解する事も出来たのではないでしょうか。
ルナンに帰るのでも、イルダーナフと共に諸国を放浪するのでも、何でもよかった。
けれどもしカイルロッドが生き返る事が出来たのならば、レヴィの居る神殿に押し込んでやりたいと思ってました。
ただ素直に、自分の立場や相手の事を思い遣りも考えもせずに、躊躇い無く「おかえり」を言ってやれるのはこの場所だと思いました。


…ええ、別にわたしがレヴィが好きだからとか、そう、関係なく。ええ。(ぼそり)









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