飛び込む様に息せき切って部屋に入れば、ノートを広げてパイプ椅子に座っていた千裕が顔を不意に上げた。多分驚いたんだろう、それだけの勢いと衝撃。反動で返ってきた扉を片手で制して、反対の手で平馬はごめんの形を作る。急いでたのは本当だったけれど、誰も居ないと思ってたんだ。そう零せば、そうか、と千裕は答えてまたノートへと目をやって。響くペンの走る音をBGMにして、平馬は着替えを始める。もう時間はそうに無いのは嫌という程判っていて、気ばかり焦ってしょうがなかった。噛んだファスナーはまだ、取れない。


くすくすの声が、不快じゃないのは不思議だと思う。
噛み付く訳でもなく、答える訳でもなく。何やってんの、と視線もやらずに問いかければ、千裕は少し、間を置いて答えた。
「ん、監督に頼まれてたデータの直しと…後、ついでだから俺なりに気づいたうちのチームの奴らのクセ。どうせ呼び出されたんだから監督に渡しとこうかと思って、今まとめてる」
「ふぅん」
「結構後ろから見てると気づく事もあるんだよな。…っと、こら。覗くなってばまだ出来てないんだから」
どうにかジャージを脱ぎながら、覗き込んでやればすぐに千裕に手で隠される。お陰で内容はまるで判らなかったけれど、男のくせに綺麗な千裕の字は見て取れた。千裕の字は丁寧でいい。読み易いとかそういうのじゃなく、何だか。いい。
「平馬」
「…ん?」
「何か、照れるから離れて。…急いでるんじゃなかったっけ」
「あーうん。そう。ごめん」
知らない間に千裕の背に乗っている様な体勢になっていて、控えめに制止とそれと忠告をいつもの落ち着いた声で平馬にくれた。
声もいいんだよなぁ、とぼんやりと思いながら、離れて、制服のシャツを平馬は羽織る。
DFの中央、ラインの要。前線の叱咤が届かない事は一度だって無い。よく通る低い声質や、へいま、と呼ぶ語尾の柔らかさも、凄く。すごく、平馬は好きだ。
「へいま」
「………え?」
「どした、さっきからぼぉっとして。…ごめん、じゃあ何時終わるか判んないから、待ってないでいいから。気をつけて帰れよ、何だか」
「あ、うん。サンキュ」
本当に声を掛けられて、何でだか耳が赤くなっていくのが判った。目をやれば千裕は立ち上がっていて、すとんと平馬が頷けば、嬉しそうに千裕は笑った。頭を通りすがりに撫ぜていく、その手の柔らかさも。平馬は。
平馬は。


「またな、平馬」


自分が急いでいたのは本当で、一緒に帰れない旨はずっと前から伝えてた。ネクタイを引っ掛ける様に首に巻けば、着替えは終わりだ。後は鞄を持ってバス停まで走る、それだけだった。
それだけなのに。
後姿が見えなくなって、耳に残った声の残像が消えてしまって、何となく唇が尖ってしまった自覚があったから、平馬もぺたん、と千裕が座ってたその椅子に座る。
冷たいのが何時ものパイプ椅子は、珍しくまだ彼の温度を残してたのが、嬉しかった。



「……五分だけ、だ」
言い訳と制約を誰も聞いてないのに口に出して、袖を引いた余韻に浸る事に、今決めた。
平馬の温度は思ったより高くて、パイプ椅子はなかなか冷えない。混ざってしまって判らないそれは丁度良い暖かさで、何となく嬉しかった。だから目を閉じた。
薄れる視界、目の前に持ってきた時計の針はあっさり斜めに首傾げたけれど、それもあっさり目を閉じた。







@いいはしないけど、すごく、きみが。


四時五分、平馬版。眠る前。
平馬も平馬で千裕にめろめろで、でもそれを相手に言わないのがいい。





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