「俺なんかでいいんだろうか。本当に」
 自身の苗字を屋号とし、代々受け継いできた歴史ある老舗の旅館。
 その名代を継いで一週間、中西は同じ台詞をもう何度聞いただろう。32回まで数えてもう飽きた。



「預かりきれない。何より責任が重過ぎる。…背負うのが嫌なんじゃない、未熟な俺の所為で名前が傷つくのが嫌なんだ」
 時間は正午を回った処で、中西は予約帳と幾つかの指定メモを照らし合わせながら必要事項を書き込んでいった。
 平日である、今日の予約は4件。うち一組は食べ物の好き嫌いの多い常連で、厨房へ顔を出して打ち合わせをしておく必要があるから、赤丸を名前の前に小さく入れる。
「かけなくていい迷惑をかけるくらいなら、伝統も家名も全部放り投げて、もっとあるべき人間が継ぐべきだろう。俺だってそりゃあ、出来ることもあるさ。でも、正直向いてるとは思えない。…思えないよ」
「……あーうるさい」
「俺なんかより、中西の方がよっぽど向いてる。…そりゃ俺は、帳簿とかつけれないけどさ」
 愚痴の合間にはパチパチ、なんて規則的な音が常に入って、それが妙に中西の集中の邪魔をする。
 溜息をひとつついて、顔を上げればソロバンを一人意味も無く弾いている友人の姿が当然の様に映る。本人の自由だろうけど、でかい図体で椅子の上、体育座りは止めてほしいと思った。可愛くもなんともないんだ。
 書類仕事の時だけかけている眼鏡を中西は外しながら、辰巳、と彼の名前を呼んだ。
「何いじけてんだ」
「……別に」
「こないだ挨拶に行った大部屋のお客さんにアルバイトと間違えられたからか?それともエレベーターに最後に乗ったらブザーが鳴ったから?帰り際の子どもに、満面の笑顔で「おじちゃんありがとう!」ってお礼を言われたのはそりゃ傷ついただろうけど、でも嬉しかったんだろう?違うか?」
 畳み掛ける様に言った中西の声に、辰巳は半笑いの顔で、それでもうん、と頷いた。
 にぃ、と自然と笑みが浮かんだから。
 ぐしゃぐしゃ、と下向きなままの辰巳の頭を中西はかき回す。
「別に誰かのためにやってるんじゃないんだろ」
「……うん」
「好きなんだろ、この仕事」
「……うん」
 チェックイン前の2時間、新しいお客を受け入れるその少し前にやってくる、鬱とは違う妙な落ち込み具合。
 それは自信や経験といった背中押しがない、その座についたばかりの若旦那の習慣…習性だ。
 ほっとけばいいと毎回思うものの、それでもこうして仕事の片手間に項垂れた頭を持ち上げてやるのが中西だ。
 どうしてだろうと思うよりも、鼻歌混じりで玄関を箒で掃いている根岸も多分同じことをしただろうと、確信の方が先にくる。腐れ縁の付き合いは伊達じゃない。
 大丈夫、と力強く言えるのは、慰めなんかじゃ勿論無くて。
「お前だからってのがあるよ。絶対」
「中西」
「少なくとも、俺や根岸がここにいるのはお前あってだぜ。若旦那」
 言い切って、中西の視線は書類へとあっさり戻る。余計な事はもう言わない。会計方、予約も受ける中西の立場上知っている、例えば今日の残りの三件の予約全部が若旦那自らによるマッサージをものすごい勢いで希望していたりする、そんな人気ぶりは別に言わない。
 うん、と言う自分以外の掛け声に押されて、中西は見終わった書類の端をクリップで留める。そろそろ厨房に顔を出そう、そう思ったと同時に玄関から根岸の元気のいい声。いらっしゃいませ!客がやってきた。


「辰巳屋へようこそ」


 満面の笑顔でもなく流暢でもなく。
 でも深々と下げた頭と上げた笑みの柔らかさといったら無くて、辰巳らしいなと中西はひとりで思った。









@いらっしゃいませ。



なんだこれ。
・・・・・・・とお思いの方がここをクリックでございます。→那月さんのサイトより若旦那

これだけ堂々と無断リンクをするのははじめてだ…!でも彼女があってあたしがあるから。根岸がいて中西がいるように(え?)
意外と辰巳屋っていっぱいあるんですよ。泊まりたいよね。泊まりにいこうね。





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